デザインガトッテモジョウズ エムキュウデザイン

エムキュウデザイン、2011年3月24日のニュースです。

3.11東北関東大震災

2011年3月24日(木)

 こわかった。揺れました。ベランダの室外機は今も倒れたまま。あの日以来。揺れていないのに「あっ、ユれてる!」と言うものや、常時、イスから腰を浮かせている弊社紅一点(オッカ)など、浮わつき気味のm9デザインですが、僕らの暮らす東京は被災地ではありません。ですからここ東京は、出来うる限りの支援の手をのびのびと伸ばす立場のはずでした。はずでした。というのは、そんな被災地でないはずの東京にもこれまで見たこともない暗雲がやってきたからです。

 故障した原発から漏れ、風にのって運ばれてきているというソレを示すベクレムとかシーベルトという数字は、東京のスーパーやコンビニの棚を空にしました。そして、それらの数字を「大丈夫」という人、「もうだめだ」という人、「科学っぽい」さまざまな人が示す、さまざまな指標に僕らはアタフタしっぱなしなのです。この現実化したフィクションのような事態に東京の人は、情けないけど混乱しています。

 こんなふうに東京を中心にしか語れない僕自身もザンネンなヤーツということを認めつつも、目に見えないソレの恐怖は、そんなふうにヒトをカッコワルくして、人間から人間のいいところを奪ってしまうようです。なぜならソレは、健康と命をじかに脅かすのみならず、その土地と共に、一代では終わらない禍根を残す、超恐怖として僕らは認識しているからです。そして、少しでも遠くへ移動する以外にソレから身を守る術がないのだということも。

 にもかかわらず、そんな恐怖の最前線で「放水」をやり遂げた東京消防庁の隊員たちがいました。彼らにはただただ頭を垂れるのみですが、彼らの記者会見からヒシヒシと伝わってきたのは現場の息を呑むような緊張と恐怖感でした。ひとたび事故となれば、誰かの健康や、命を賭けることがまず要請される、そんな仕組みに支えられていた僕らの生活がムき出しになりました。

 「想定外」というフレーズは、確かに誰かの責任逃れかもしれません。しかし、「絶対」だったソレは、「想定外」に大敗北したのです。「想定外」とは、「現実」の別名です。「現実」は「絶対」を保証しない。完膚無くそれを知った今、「絶対」であることが大前提の原発という方法はもうありえません。

 しかしソレは現在進行形です。まだまだ新しい恐怖を見せつけるかもしれません。だから今はただ、収束のメドがたつこと、そしてせめてこの事態が原発をめぐる最後の事故であり、脱原発への決定的なきっかけとなることだけが、今の「希望」と思います。

 いつもの適当な感じで書き出したら長くなってしまいました。じかに被災された方々に向かって言える言葉は僕にはひとつもありません。目だけはそちらに向けながらその顔はとんでもなくマヌケづらです。今、僕らが出来るのは、粛々と日々を過ごしつつ、いままでしたことのない額の募金をすることでしょうか。

 写真は本日の弊社ベランダからの眺め。3.11以前と何も変わらない午後の日差しを受ける東京のビルですが、ここ新宿も夜は以前の7割ぐらいのあかるさです。その節電モードタウンを歩きながら、これまで自分が価値をおいてきたモノのいくつかが無意味化していることに気づきます。まだ浮わつき気味の僕らですが、この大きな事態は、弊社にも経営的経済的困難に耐えなければいけない事態を招くことも充分に考えられます。短くない時間を耐えるには、耐えるに値する目指される明るい未来像が必要です。僕らも顔を洗ってあらためてこれからのことを考えていきたいと思います。もちろん弊社の最良部分である楽天家の資質をそのベースとして。

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